tykmen’s diary

Laugh at life

3.11

話は変わって、今日は3/11。

 

地震がおきた2011年、自分は小学四年生、学校でテストを受けていて終わってぼーっとしていた。

 

友達が地震だ!と言ってそこからはもう凄かった。アトラクションのように3階の自分たちの教室は揺れた覚えがある。死ぬと思ったし、怖かった。

 

その日の夕飯は本当にずっと覚えている。

鮭の塩焼き、ごぼうとこんにゃくと牛肉の煮物だ。

 

鮭が大好きな自分も口に入らなかったのを覚えているし、そこから1週間、毎日報道ばっかでつまらないなと10歳の自分は思っていた。

 

CMも同じでテレビも見えない、その頃はまだネットワークが発展していないからずっと暇だなあと思っていた。

 

テレビで見る現状、その悲惨さを確かめなければいけないと思った我が家は、震災からわずか2ヶ月も経っていないGWに、仙台の閖上地区に足を運んだ。

 

そこで見る光景は、想像を絶していた。高速の左側は田んぼが広がっているいたって普通の光景、少し車が少ないぐらいだろうか。

しかし、

 

 

 

右側には、津波で流された家、車、船、木、全てがガレキとなって一面に広がっていた。

 

 

俺は絶対に一生あの光景を忘れない。

 

そして、その右側の方に行き、この光景を目に焼き付け、写真に捉えた。

写真に捉えていい場所ダメな場所があるが、ここは絶対に写真を撮ってよかったのだと思う。

 

今でも、それを見れば、たくさんのことを考え、思い出せる。

 

 

 

辺り一面ガレキしか広がっていない、とてつもなく広い土地に、赤い旗がいくつも立っていた。

 

何を表しているか、

 

 

 

それは、亡くなった人が見つかった場所だったらしい。

 

10才のやんちゃな自分でさえ声が出なかった、まともなことを発することが出来なかった。初めてだったあの経験は。

 

いつも行く福島のキャンプ場のついでに足を伸ばしたのだが、そのキャンプ場も被害を受けており、多くのとこが地割れを起こしていて、放射線も強く来ていた。

 

この震災は原発事故も偶発的に起きてしまった。

 

レベルとしてはチェルノブイリ原発事故とおなじレベル7。悲惨とかいう話ではない。もし分からなかったら調べて見て欲しい。チェルノブイリは日本の原発事故の比では無い。無いが、福島第一原発の事故も考えられないほどの大惨事となっている。

 

 

今日本では原発に反対する人が増え、ほとんどの原発が停止してしまっている。

 

もちろん同じような事故を絶対に起こしては行けない。

 

しかし、原発があって、生計が立っている人、町はどうなのだろう。

 

非常に難しいものがある。

 

自分はそのようなことを大学で学びたいと思っている。自然環境問題に対して様々な価値観から見てみたい。

 

話は戻るが、生まれてから5ヶ月で行った福島のキャンプ場は、2014年まで14年間行っていた。

 

11年はガレキだらけだったが、12年は綺麗な更地になっていて、13.14年になると朝市を海沿いでやっていた。とても嬉しかった。なんだか感動した。

 

そこは閖上地区という所だが、閖上中学校に毎回足を運んでいた。

 

そこはずっと、時刻は3:15あたりで止まっていた。おそらく津波が来た時間だと思われる。

 

中三、高一の時に東北被災地研修に学校のプログラムで志願し行かせてもらったが、そこでは岩手、三陸沖に行かせてもらい貴重な体験をさせて頂いた。

 

今自分が好きなバンドも、被災地、なにか自然災害があればその土地に出向いているのを見る。本当にすごいと思うし、尊敬する。

 

 

 

今自分が出来ることはもう少ない。しかし、何かあった時のために考え、何かあったらすぐ動けるよう、偽善だとなんでも言われても、自分が正しいと思った道に進みたい。

 

 

 

生きていることに感謝しながら毎日を過ごすのは難しい、当たり前の日常だから。

 

その当たり前が崩れることがある。無いと願うが絶対に大きな災害はまた起こる。その時にどういう行動を取れるかが大切だと俺は思う。

 

震災からわずか2ヶ月という、まだ自衛隊が出入りしている被災地に行かせてくれた、子供たちに見せなきゃと思ってくれた親と、被災地研修で多くの経験をさせてくれた担当の先生、現地の人、そして今好きな尊敬しているバンドマン達。

 

どうかみなさんが幸せになりますように。

 

 

 

 

俺は幸せな世の中を作りたい。本当に難しいけど。

 

でもせめて自分の周り、自分の関わるところはそうであって欲しい。